中部商業高等学校 (宜野湾市我如古2)                    2013年8月作成
中部商業高校付近は昭和20年4月10日から4月20日にかけて戦場となった。
 4月1日に嘉手納海岸に上陸した米陸軍第96師団は、停滞することなく南下を開始し、4月5日には日本軍主力部隊の待ち構える第一線陣地と接触した。 現在の沖縄国際大学から志真志小学校、中部商業高校、西原高地に至る一帯には、日本軍の第62師団第63歩兵旅団独立歩兵第14大隊が陣地を構築して第一線陣地として防御戦闘を行った。
 中部商業高校一帯は、付近の地形に比較して約20mの高低差のある台地になっており、この台地を日本軍は「我如古東側高地」と称し、米軍は周囲に多数の墓があったことから「墓石高地」(Tombstone Ridge)と称した。 一見すると小高い丘であるが、日本軍(独立歩兵第14大隊第4中隊)は、周到に陣地壕(一部墓を陣地壕として使用)を構築し、米軍が至近距離または陣地上に立ったところで一気に射撃を開始、その後は迫撃砲射撃を集中するなどして米軍を苦戦に陥れた。 

 米軍は、4月7日には志真志小学校北側に達し、当初志真志小学校北側の争奪戦に終始したが、4月18日になっても台上に立つことが出来なかった。
 4月19日、米軍は太平洋戦争中最大の攻撃準備射撃 (地上部隊が攻撃を開始する前に、日本軍陣地に対して艦砲射撃や砲兵射撃を行うこと)を行った上で、周到に攻撃を再開した。  だが米第382連隊第1大隊は、午前中から死傷者が続出、A中隊長をはじめとして多数の将兵を失った。  午後になって米軍は火力支援を受けてようやく台上に進出、現在の中部商業高校付近まで確保することが出来た。
 一方、第一線陣地に米軍の進出を許した日本軍独立歩兵第14大隊は、失った陣地を再度獲得すべく、第3中隊を投入して夜間攻撃を実施した。 第3中隊は待ち構えた米軍に集中射撃を浴びせられ、ほぼ全滅状態となった。 この全滅の地が現在の中部商業高校の位置となる。 (中隊総員約200名)
【独立歩兵第14大隊第3中隊の突撃】
 第3中隊は独立歩兵第14大隊中「最優秀」であると言われていた。それは中隊長千葉中尉の人格・指導統率のなせるもので、「うちの中隊長となら死んでもいい」 と部下将兵が常に口にしていたくらい慕われていた。 第3中隊は「棚原高地」に居たのであるが、事態の悪化と共に、大隊長の命により我如古にて苦戦を続ける第4中隊救護のため、中隊長は部下精鋭を引っさげて戦火の荒れ狂う我如古に赴いた。 この時の千葉隊長の目に映じた新戦場はおそらく想像以上のものがあったことであろう。彼はその時 「よき死に場所を見つけた」 と部下に言った。
 千葉中尉は自ら先頭に立ち敵弾の降りしきる中を抜刀して突進した。間もなく中隊長は蜂の巣の様になって戦死した。中隊幹部は同じように次々に斃れていった。 「中隊長を渡すな」 と部下は肉迫したが、残念ながらその目的を達せずして無念の叫びと共に敵弾に倒れねばならなかった。