普天間第二小学校 (宜野湾市新城2丁目)                          2013年7月作成
 普天間第二小学校付近は昭和20年4月4日に戦場となった。
 4月1日に嘉手納海岸・桑江付近に上陸した米陸軍第96師団は、停滞することなく南下を開始し、現在の普天間の西側(北谷〜普天間)を第383連隊が、東側(普天間〜中城)を第381連隊が担任した。  一方日本軍は、独立歩兵第12大隊(賀谷支隊)のみが米軍の上陸海岸から単独で戦闘を行い、特に普天間第二小学校の北側にあるキャンプ瑞慶覧付近に独立歩兵第12大隊第1中隊が陣地を構築して米軍の進出を阻止した。 4月3日にはこの陣地一帯に米軍が殺到し、第1中隊は昼間離脱をもって普天間の南側、野嵩陣地に後退した。 この後退により普天間第二小学校付近には日本軍が配置されておらず(次の日本軍陣地は大山・神山にあった)、したがって4月4日に米軍は一気に現在の普天間飛行場中央部(当時は現在の海兵隊格納庫付近に「神山集落」があった)まで進出した。 
 普天間第二小学校付近を通過したのは米第96師団第383連隊第2大隊であった。 

 これだけ広大な地域を独立歩兵第12大隊第1中隊 (定数189名であるが、4月1日からの戦闘で更に将兵は減員している) のみで防御するのは困難であった。 また広範囲に陣地を配置したために、4月2日夜の野嵩地区への後退命令の伝達に時間を要したため、戦闘時に最も危険とされる昼間離脱を行わざるを得なくなった。 しかしながら、この苦戦は独立歩兵第12大隊にとっては承知の上であり、抵抗しつつ後退するという「遅滞戦闘」は概ね成功したと言える。