喜名小学校 (読谷村字喜名401)                              2013年7月作成
喜名小学校付近は昭和20年4月2日に戦場となった。
昭和20年4月1日に米軍は、比謝側を中心として北側に米海兵隊(第1海兵師団・第6海兵師団)、南側に米陸軍(第7師団・第96師団)が上陸を開始した。 北側に上陸した米海兵隊の初日の目標は、北飛行場(読谷飛行場)の確保であった。 当時の北飛行場付近にはわずかに座喜味付近に日本軍守備隊が配置されていただけで、米海兵隊は概ね抵抗を受けることなく飛行場を確保した。
 喜名集落付近は第6海兵師団第4海兵連隊が担任して攻撃、4月2日には喜名集落を越えて更に東へ進む計画であった。 喜名集落の東側には、日本軍の特設第1連隊第1大隊が、海軍の構築した壕に立て籠もって抵抗した。 米軍の記録によれば、朝7時30分から攻撃を開始して東へ進み、11時にはこの特設第1連隊第1大隊壕付近に到達している(第4海兵連隊第3大隊)。 この壕の攻略には4時間を要し、12名が負傷している。

 日本軍側の記録は次の通り。
 「4月2日朝、米軍は壕へ迫ってきた。 敵戦車の轟音に混じって発射音がタンタンタンと響く。 壕から急造爆雷を背負った数人の兵士が飛び出したが、米軍は自動小銃で銃弾を浴びせかけた。 午前11時、迫撃砲の重囲に落ちて壕は身動き出来なくなった。 部隊の命令はなかなか出ない。 さらに時間が経過して壕の入口付近まで迫撃砲が暴れ回った。 何時忍び寄ったのか、数人の米兵が壕の上に姿を現していた。 『米兵が・・』と夢中に口走る。 黒澤大隊長も皆、壕から押し出されるように壕外に出てしまった。 自動小銃の流れが頂上から降りかかってきた。 手榴弾を投げる。 田圃の中にはやられた兵隊が大勢バタバタと手足を動かし、口々に何かを叫んでいた。 兵隊はほとんど倒れ、田圃の水は数百人近い人間の血で赤く染まった」。

 喜名小学校は米海兵隊第4海兵連隊が4月2日朝7時30分以降に通過している。 上記の特設第1連隊第1大隊壕は、小学校から東へ約1km付近にあるが、現在は米軍の管理地で立ち入ることができない。