沖縄キリスト教学院大学・短期大学(西原町字翁長777)                  2013年7月作成
 沖縄キリスト教学院大学・短期大学付近jは、昭和20年5月4日に戦場となった。
4月24日に琉球大学医学部一帯の高地は米軍に占領され、日本軍は第2線陣地を構成するために、この一帯の部隊を一気に南下させて戦線の強化を図った。 だが、日本軍内部には米軍上陸以来、常に防御戦闘を行ってきたことに対して、「座して死を待つよりも攻勢に転ずるべき」という意見が台頭してきた。 このため、沖縄第32軍司令部は、失地を回復し、米軍に痛撃を加えるため、5月4日早朝から大規模な反撃(攻勢移転)に転じた。
 沖縄キリスト教学院大学・短期大学付近は、第24師団第89歩兵連隊第1大隊(大隊長 丸地大尉)の攻撃前進経路であった。 5月4日午前5時に第1大隊が小波津付近から攻撃開始。 呉屋集落〜現在の西原運動公園を通過し、午前7時前には沖縄キリスト教学院大学・短期大学付近に到達した。 だが、7時頃から米軍機に進出を補足され、更に棚原付近にあった米軍戦車からも反撃を受け、死傷者が続出。 必死に戦線を立て直そうとするも、昼頃には米軍の迫撃砲・戦車砲の集中射撃を受けて、大隊長は戦死、第1中隊・第2中隊・第3中隊とも全滅的損害を受けた。
 第1大隊は、5月4日夜に運玉森(沖縄キリスト教学院大学・短期大学の南約3km付近)まで後退したが、生存者は約50名程度であり、しかも負傷していない者はなかったとされる。
編成上は799名の部隊であることから、沖縄キリスト教学院大学・短期大学付近や小波津地区の戦闘において、約750名の将兵を失ったことになる。
 歩兵第89連隊第1大隊は、作戦計画では援護射撃の砲兵とともに煙幕による行動の隠蔽が行われることになっていた。 しかし、計画に反して全く援護が受けられず、敵中に裸同然に置かれることとなった。 大隊長は何度も伝令を走らせて、援護射撃の要請を行ったが、ついに腹部に数発の銃弾を受け、「ご苦労であった。俺はこれ以上指揮をとれなくて残念だ。 一人でも生き残り、この状況を本部に連絡してくれ。 俺は先に行く」 と言い残して自爆した。
 沖縄キリスト教学院大学・短期大学と琉球大学医学部の間には県道29号線が走る谷がある(写真右)。 沖縄キリスト教学院大学・短期大学の丘を越えてこの谷に侵入した将兵は、棚原高地や琉球大学医学部にあった米軍から、小銃・機関銃射撃・戦車砲・迫撃砲射撃を受けて、ことごとく倒された。