志真志小学校 (宜野湾市宜野湾3)                         2013年7月作成
志真志小学校付近は昭和20年4月10日から4月19日にかけて戦場となった。
 4月1日に嘉手納海岸に上陸した米陸軍第96師団は、停滞することなく南下を開始し、4月5日には日本軍主力部隊の待ち構える第一線陣地と接触した。 現在の沖縄国際大学から志真志小学校、中部商業高校、西原高地に至る一帯には、日本軍の第62師団第63歩兵旅団独立歩兵第14大隊が陣地を構築して第一線陣地として防御戦闘を行った。
 米軍は4月6日には、現在の沖縄国際大学付近の日本軍陣地を突破し、7日には志真志小学校北側に位置した。 4月10日、米軍は行動を開始し、第382連隊第1大隊が志真志小学校付近の攻撃を担任した。 
 志真志小学校の南側は約20mの高低差のある高台になっている(写真右下)が、この台地を日本軍は「我如古東側高地」と称し、米軍は周囲に多数の墓があったことから「墓石高地」(Tombstone Ridge)と称した。 一見すると小高い丘であるが、日本軍は周到に陣地を構築し、米軍が至近距離または陣地上に立つまで射撃を控えたために、米軍は予想外の死傷者を出した。 特に4月10日は、米軍は現在の小学校グランドや校舎のある位置から台上に進出しようとしたが、いったん台上に進出すると、日本軍の一斉射撃によりことごとく撃退された。 米軍は14時15分に撤退命令を出すが、現在の校舎やグランド付近を撤退する際も徹底した迫撃砲射撃を加えられて死傷者が増大した。  この日、米軍は強靱な日本軍の抵抗に遭遇し、小学校北側に撤退、その後4月19日までほとんど手を出せない状況に陥った。
 4月19日、米軍は太平洋戦争中最大の攻撃準備射撃 (地上部隊が攻撃を開始する前に、日本軍陣地に対して艦砲射撃や砲兵射撃を行うこと)を行った上で、周到に攻撃を再開した。たが結果は4月10日と同じであった。 小学校グランド付近から念法寺付近に進撃したA中隊は中隊長以下多くが戦死し、東から進出しようとしたC中隊も日本軍の機関銃と迫撃砲で全く身動きが出来なかった。 午後になって米軍は火力支援を受けてようやく台上を確保することが出来たが、米軍はこの小さな丘ひとつを確保するために、多くの犠牲者を伴った。
 この「我如古東側高地」を守備したのは、独立歩兵第14大隊第4中隊であった。 記録ではこの戦闘後に撤退した記録がないことから、大半の将兵はこの地で戦死したものと考えられる。 独立歩兵第14大隊第4中隊は初陣であり、戦闘の開始時にはほぼ編成上の兵員数がいたものと考えられ、それからすると配属部隊も加えて約200名が戦死したものと推定される。(米軍側には詳細な戦死者数の記録なし)。

 * 4月10日および19日の米軍側の戦闘記録に詳細が記述されているために、戦闘図とあわせて下段に掲載した。
                                昭和20年4月10日 志真志小学校付近の戦闘記録
【米軍側の記録】
 10日の攻撃で最悪の事態に陥ったのは第382連隊中央部を攻撃前進した第1大隊であった。連隊の攻撃地域全体を見下ろせる 「ツームストンリッジ」 は第1大隊が担当したのだ。0840、A中隊が「ツームストンリッジ」の北端部に取り付いたが、稜線上かのら敵の小銃射撃と激しい砲迫射撃を受けて停止した。これを見て連隊長は我如古西側に位置したB中隊とC中隊を「ツームストンリッジ」の北西から攻撃させた
(地図;左)。B中隊もC中隊も全くの静寂の中を稜線上にまで進出したが、その時突然としてあらゆる場所から15分間にわたる敵砲迫の集中射撃が開始された。
 第1大隊は大混乱となった。反対斜面から至近距離で機関銃射撃を受けた。アメリカ兵は携帯火炎放射器で反撃しようとしたが、日本軍も奪い取った火炎放射器で反撃してきた。擲弾筒も稜線付近に着弾し始めた。大隊長は先ほど撤退してきたA中隊をB・C中隊の右側(南西)に向かわせた
(地図:右)。だが無駄であった。北東側にいた日本軍の機関銃は射撃方向を変えて射撃してきた。アメリカ軍は絶望的な中にも少しでも前進しようと試みた。1415、大隊長は進展のない戦況を見て撤退を決意した。全将兵は我如古の北側に整然と撤退したが、撤退中も敵の砲弾は落下し続けた。そんな中で誰もが冷静でいられたのは、全員が疲労困憊で言葉を交わすことも出来なかったからであった。 

                           


【日本軍側の記録】
 我如古正面の米軍は10日に攻撃を再開し、その一部は西原高地北側谷地に進出して来た。
我如古東側高地陣地(第14大隊第2中隊、独立速射砲第22大隊第1中隊等)は正午頃には米軍の馬乗り攻撃を受けるに到った。我が部隊は米軍に対し、急襲火力を加え、逆襲を実施し、臼砲・迫撃砲の有効な支援を得て夕刻までには撃退した。
 
       
                                         昭和20年4月19日 志真志小学校付近の戦闘記録
【米軍側の記録】
第382連隊の攻撃 (ツームストンリッジの攻撃)
 第382連隊第2大隊は0640から攻撃を開始し、敵が保持していた一連の小さな丘陵の占領を画策した。しかし左手の「ロッキークラグス」から激しい射撃を受けて犠牲者が増えた。戦車が前進すると道路脇の壕から爆雷を持った肉薄兵が飛び出した。また道路上には戦車の機動を阻止する障害が効果的に配置されていた。敵の抵抗は少なかったものの、計画した800m前進は達成できなかった。
 その頃、西側の第382連隊第1大隊 C 中隊(左)と A 中隊(右)はほとんど抵抗を受けることなく「ツームストンリッジ」(名前のとおり墓地が集中してる)の北端を挟み撃ちする形で前進を開始した。高さは約25mで南北に約1kmほどの細長い丘陵であるが、その地区では目立つ地形であった。A中隊・C中隊が日本軍の陣地付近に近づいた瞬間に静寂が破られた。C中隊は機関銃と迫撃砲射撃によって丘陵の東側に足止めされ、A中隊は手榴弾によって丘陵の西側で停止した。 1200頃、A中隊の一部が西斜面から丘陵の頂上部に対して攻撃を仕掛けたが、頂上部に止まることも反対側の斜面に駆け下ることも出来なくなった。中隊長は頂上部付近で戦死した。この攻撃中にも戦車が敵の対戦車火器から射撃を受けて撃破された。夕刻までに第1大隊は「ツームストンリッジ」の北西突出部とその西斜面にかろうじて取り付いた。「ツームストンリッジ」の奥まで進んだ訳ではないが、そこには地下で結ばれ、どちら側にも移動できる相互支援可能な強力な陣地が隠されていることは明白であった。