軽便鉄道爆発事故 (南城市大里)                            2013年7月作成
 戦前の沖縄には、与那原線、嘉手納線、糸満線で構成された軽便鉄道が走っていた。(終戦後から現在まで沖縄には鉄道は復旧しなかった)
 
沖縄第32軍司令部は、昭和19年11月26日に第9師団台湾抽出に伴う新作戦計画を下達した。 それまで嘉手納付近に展開していた第24師団を本島南部地区に移動させることとなり、軍は将兵・築城資材・集積弾薬をこの軽便鉄道をこの移動に使用した。 昭和19年12月11日、嘉手納駅から兵士・兵器・弾薬を積載した列車が那覇市古波蔵を経由して糸満に向かった。 午後3時30分、喜屋武駅を過ぎ、次の稲嶺駅に向かっていた列車が、途中の掘割(切り通し)の登り坂に差しかかったとき、突然の大音響とともに爆発した。 運悪く、この日は古波蔵駅から通学の女学生を乗せていたため、約200名の死傷者を生じる大惨事となった。
 散乱した肉片とともに焼けただれた遺体が散乱する状況の中、引火した弾薬が更に爆発し、弾薬の破片が付近一帯に降り注いだ。 現場付近の2軒の民家が燃え、爆風により1軒の民家が吹き飛ばされた。
 当時、この爆発事故について、軍は箝口令をしき、現場付近へは民間人を一切立ち入らせず、憲兵隊の監視下で事故処理を行った。 したがって、損害状況は明確ではない。 しかしながら、長勇参謀長が、「十・十空襲によって受けた被害に比較にならないほどの被害状況は国軍創設以来初めての不祥事件であり、これによって沖縄第32軍の戦力は半減したと言っても過言ではない」 としていることから、特に弾薬の損失は甚大であったと考えられる。
 
 写真左 : 爆発事故現場を南から見たもの。 写真の撮影場所が堀割(切り通し)の頂上部であった。
 写真右 : 爆発事故現場を北から見たもの。 堀割(切り通し)への登り坂となっていることがわかる。