与那原町役場 (与那原町字上与那原16)                      2013年8月作成
 与那原町役場付近は昭和20年5月22日から23日にかけて戦場となった。
 首里防衛のための東海岸の要衝は、与那原の北側にある 「運玉森」で、ここには第24師団歩兵第89連隊が守備しており、5月10日頃から米軍と戦火を交え、苦戦の中にも何とか戦線を保持して米軍の猛攻に耐えていた。 5月20日、それまで歩兵第89連隊は運玉森より北側で米軍の進出を食い止めていたが、この日ついに運玉森の南側に米軍の進出を許すことになった。 これをもって、米軍は海岸線を通って与那原の町に進出する足がかりを整えた。
 5月21日夜、米軍は与那原から更に南下するために第184連隊を運玉森北東の我謝に集結させた。 夜半から雨が降り出し、先遣中隊である第184連隊第2大隊G中隊は5月22日0200からポンチョを被って前進を開始した。 この頃には雨は本降りになっていた。 闇の中で日本兵と遭遇する場面もあったが、敢えて発砲を控えて前進を続けた。 0415、与那原交差点に到着。 ここで中隊は2個小隊を並列(横並び)として与那原町役場のある高台に進出した。 進撃は全くの無傷であった。
 現在の与那原町役場一帯の高台を米軍は「Spruce Hill」(松の木高地) と呼称した。 この高台を確保した米軍は、信号弾を打ち上げ、後方を前進していた各部隊に対し、更なる南進を指示した。 この重要な地形を確保したことにより、日本軍の中核である首里司令部は、那覇市及び与那原町の両翼から一気に包囲殲滅される可能性が高まった。 その意味でこの 「Spruce Hill」 の喪失は、沖縄戦における重要なターニングポイントとなったと言っても過言ではない。
 この場所には日本軍の配兵は僅かであり、米軍側の記述にも交戦の記録がないことから、戦闘による死傷者は発生しなかったと考えられる。