小禄地区赤土山 (那覇市田原2でいご公園)                 2006年11月撮影

                          * この写真は同アングルからの撮影ではなく、現在の写真は戦時下の写真の右から撮影したものである

 アメリカ空軍が撮影したこの航空写真には「那覇から1.5マイル南で日本軍が死力を尽くして抵抗をした場所」という記載がされている。数多い写真の中で日本軍の抵抗した場所をクローズアップした写真は極僅かであり、その意味からも米軍が非常に苦戦した場所であろうと推察される。那覇から1.5マイル(約3km)という漠然とした位置ではあるが、おそらく小禄半島内の地形だろうということから筆者の場所特定作業が始まった。写真右上に僅かに海?が見えていることから小禄半島(写真は北から南に向かって撮影されている)であることの確信は持ったので、まず大正8年版の軍事地図から地形を読み取ろうとしたが当時はほぼ全域が未開の山野であり、同じような地形がいくつもあって特定には至らなかった。次いで日本軍側の記録から激戦の記録が残された場所を求めたが、海軍司令部74高地、63高地、53高地、55高地など記録に残された場所はいずれもこの地形ではない。
  そんな時に「特攻に殉ず」「八月十五日の天気図」という小禄を舞台にした戦記を読んでいる中に「赤土山」という名称が目にとまった。軍が名称を付けている地形には必ず陣地が構築されていると言っても過言ではないため、この「赤土山」にも陣地があった可能性がある。この「赤土山」は略図から海軍巌部隊の中枢であった「寿山」(戦記に登場する)の位置の北東側にあることが判明したので地形描写が曖昧な大正8年の地図(地図1)から離れて、1946年に米軍が作成した地図をもとに「寿山」「赤土山」の位置を探った。その地図が(地図2)である。確かに写真に符合する地形が存在する。しかしながら写真手前にある「くの字」の道路が確認できない。終戦後は米軍の手で道路などは大きく付けかえられているために、この道路も改められている可能性があったし、加えてこの地域は戦後も米軍が接収して基地建設を行ってきた場所である。やはり戦前の地図が不可欠であった。 
  次に目を付けたのが昭和20年1月3日に米空軍によって撮影された航空写真である。これを確認(写真1)してみた。よく見るとその地形の北側に写真と同じ道路があるではないか。これをもってこの写真の二股の場所が「赤土山」であることが判明し、背景に見えているのが「寿山」、さらに気象班の「松ヶ峯」などが含まれており、第6海兵師団第29海兵連隊がこの地区で最も苦戦した米軍名「Easy Hill」、そして遠くに海軍司令部74高地まで写っていることが判明したのである。(写真右)
  この「赤土山」周辺地域は昭和50年頃まで米軍基地の一角であったが、その後返還されて現在はモノレールの走る近代的な町に生まれ変わっている。現在の写真は航空写真を右から見る形で撮影している(地図3)。写真中央部に走るモノレール路線が二股の地形の手前側(道路のある平地部)にあたり、その右に広がる樹木の丘が二股の地形「赤土山」となる。辛うじて「赤土山」だけがその面影を残すことになっているが、この近辺一帯で海軍部隊と米海兵隊が激戦を交え多くの将兵の血が流されたことは決して忘れてはならないことであろう。

       
           地図1                      地図2                        写真1                        地図3
                       黒丸:赤土山  青丸:寿山(巌部隊司令部)  緑丸:松ヶ峯(気象班壕)  橙丸:小禄尋常小学校
                                     (航空写真は北から撮影されてるが、表示の地図は全て北を上としている)