沖縄戦の出来事
出典を確認できた沖縄戦の主要な出来事を、日付の古い順に掲載しています。沖縄戦で起きたすべての出来事を網羅したものではありません。情報は順次追加・更新しています。
27 件
1944年3月1 件
戦前・準備
第32軍(沖縄守備軍)の創設
沖縄県全域(軍司令部は1944年4月に那覇市安里、同月下旬に南風原町津嘉山へ)
1944年3月22日、大本営は大陸命第973号により、南西諸島の航空基地防衛を主任務とする第32軍を創設した。25日から福岡で司令部の編成が始まり、4月2日に那覇市安里、4月下旬に津嘉山へ移った。当初…
1944年8月1 件
戦前・準備
対馬丸撃沈事件
鹿児島県悪石島北西約10kmの海域(出港地は那覇港)
1944年8月22日22時12分頃、那覇から長崎へ向かっていた学童疎開船・対馬丸が、鹿児島県悪石島の北西約10kmで米潜水艦ボーフィンの雷撃を受け沈没した。乗船者1788人のうち、学童784人を含む1…
関連する戦跡 1 件
1944年10月1 件
戦前・準備
10・10空襲
南西諸島一帯(特に那覇市街、各飛行場、運天港ほか)
1944年10月10日、米機動部隊の艦載機延べ1396機が、午前6時40分から午後3時45分まで5波にわたり南西諸島一帯を空襲した。飛行場や船舶に加え県都・那覇の市街地も焼夷弾攻撃を受け、那覇市域の約…
1944年11月1 件
戦前・準備
第9師団の台湾転出命令と防衛計画の変更
沖縄本島(第9師団配置地域)から台湾へ
1944年11月17日、大本営は精鋭とされた第9師団を沖縄から台湾へ転出させる命令を下した。部隊は12月20日から那覇港へ集結し、28日に輸送船団が出港する。第32軍はこの決定により沖縄防衛計画の変更…
1945年3月4 件
戦前・準備
学徒隊の動員(鉄血勤皇隊・女子学徒隊)
沖縄本島の中等学校21校(那覇・首里・南風原ほか)
1945年3月中旬から、県内の中等学校21校の生徒が戦場に動員された。男子は鉄血勤皇隊・通信隊として陣地構築や伝令に、女子は看護要員として陸軍病院や野戦病院に配置された。沖縄県の集計では動員は生徒約1…
前哨戦
沖縄諸島への空襲・艦砲射撃の開始
沖縄諸島全域(本島南部・中部を中心に)
硫黄島陥落後、米軍は沖縄攻略「アイスバーグ作戦」に着手し、3月23日から沖縄諸島に大規模な空襲を開始、24日には艦砲射撃が加わった。上陸前の連日の砲爆撃で住民は壕に追い込まれ、地上戦の前にすでに犠牲が…
前哨戦
慶良間諸島への米軍上陸
慶良間諸島(座間味村・渡嘉敷村)
1945年3月26日、米軍は阿嘉島・慶留間島・座間味島・屋嘉比島に上陸し、翌27日には渡嘉敷島にも上陸した。沖縄戦で最初の地上戦であり、慶良間は本島上陸作戦の泊地・補給拠点として確保された。島には海上…
前哨戦
慶良間諸島の「集団自決」(強制集団死)
座間味島・慶留間島・渡嘉敷島(座間味村・渡嘉敷村)
米軍上陸の報を受け、慶良間の島々で住民が家族単位で命を絶つ事態が相次いだ。座間味島・慶留間島では3月26日、渡嘉敷島では3月28日に集中した。犠牲者数は集計方法により資料間で差があり、確定した合計値は…
関連する戦跡 2 件
1945年4月7 件
米軍上陸
米軍の沖縄本島上陸
読谷村渡具知〜嘉手納町〜北谷町の西海岸
1945年4月1日、米軍は読谷から嘉手納・北谷にかけての西海岸に上陸を開始した。艦船約1400〜1500隻、兵員約18万3000人、上陸部隊は第6海兵師団・第1海兵師団・第7歩兵師団・第96歩兵師団の…
米軍上陸
読谷・チビチリガマとシムクガマ
読谷村波平(チビチリガマ)・読谷村楚辺(シムクガマ)
米軍上陸直後の読谷村で、隣接する二つのガマが対照的な結末をたどった。シムクガマでは4月1日に米軍と接触した際、ハワイ帰りの住民が交渉にあたり、約1000人が投降して助かった。翌2日、チビチリガマでは避…
関連する戦跡 2 件
米軍上陸
米国海軍軍政府布告第1号(ニミッツ布告)
読谷村比謝(米国海軍軍政府)
1945年4月1日、米軍は沖縄本島への上陸と同時に「米国海軍軍政府布告第一号」(ニミッツ布告)を公布し、日本の行政権停止とニミッツ元帥を長とする軍政府の設立を宣言した。4月5日には読谷村比謝に軍政府が…
米軍上陸
民間人収容所の設置開始
うるま市石川ほか、周辺離島を含む16の収容地区
米軍は上陸直後から住民を戦場から隔離して収容し、1945年4月3日には美里村石川で収容が始まった。収容地区は周辺離島を含めて16地区に設けられ、30数万人がそこで生活した。石川には戦前の人口をはるかに…
首里防衛線
嘉数高地の戦い
宜野湾市嘉数(嘉数高地・現嘉数高台公園)
首里防衛線の西の要である嘉数高地で、4月9日の本格攻撃開始から半月にわたり激戦が続いた。日本軍は反斜面陣地と集中砲撃で米軍の前進を阻み、4月19日の攻撃では米軍が投入した30両のうち22両の戦車を失っ…
関連する戦跡 2 件
北部・離島
伊江島の戦い
伊江村(伊江島・城山周辺)
東洋一といわれた飛行場を持つ伊江島に、4月16日、米第77歩兵師団が上陸した。17日以降、城山(グスク山)周辺で激戦となる。守備する伊江島地区隊は井川正少佐の指揮下にあり、住民も女子救護班・女子協力隊…
首里防衛線
前田高地(浦添)の戦い
浦添市前田(前田高地・浦添城跡一帯)
嘉数を抜いた米軍は、4月25日、首里北方最後の障壁である前田高地に攻撃を開始した。標高約148mの断崖と反斜面陣地に阻まれ、為朝岩を中心に稜線を奪い合う戦闘が5月6日の完全制圧まで続いた。米軍はこの一…
関連する戦跡 1 件
1945年5月6 件
首里防衛線
第32軍の5月総攻撃とその失敗
浦添市〜西原町〜宜野湾市一帯
5月4日、第32軍は持久方針を転換し、浦添から西原にかけての戦線で米軍に総攻撃をかけた。砲兵の集中使用と海上からの逆上陸を組み合わせたが戦果は上がらず、翌5日に攻撃中止が決まった。この2日間で兵力を大…
首里防衛線
シュガーローフ(慶良間チージ)の戦い
那覇市安里・おもろまち(慶良間チージ/シュガーローフ)
首里防衛線の西端を守る安里の丘陵をめぐり、米第6海兵師団と日本軍が5月12日から1週間にわたり争奪戦を繰り広げた。1日に何度も頂上の主が入れ替わる激戦の末、18日に米軍が制圧する。日米双方が大きな損害…
南部撤退
首里放棄と南部撤退の決定
那覇市首里(第32軍司令部壕)
首里包囲が迫るなか、第32軍司令部は1945年5月22日に新たな作戦計画を定めた。首里での防衛継続、知念半島への撤退、喜屋武半島への撤退といった選択肢を検討したうえで、喜屋武半島へ後退して持久を続ける…
南部撤退
陸軍病院の南部撤退と重症患者の切り捨て
南風原町(黄金森の壕群)→糸満市・八重瀬町の壕
司令部の南部撤退にともない、南風原の沖縄陸軍病院にも撤退命令が出た。歩ける者だけが南部へ移動し、動けない重症患者には青酸カリが配られるなどして置き去りにされた。看護要員として動員されていた学徒も撤退に…
南部撤退
第32軍司令部の南部撤退
那覇市首里 →南風原町津嘉山 →糸満市摩文仁
5月27日、第32軍司令部は首里の地下壕を放棄して南風原の津嘉山へ移り、30日に津嘉山を出て糸満・摩文仁へ向かった。豪雨のなかの移動で、負傷兵や避難民も同じ道を南下した。この移動によって戦場そのものが…
南部撤退
第32軍南部撤退後の軍民混在と住民被害
島尻地域(糸満市・八重瀬町・南城市・豊見城市ほか)
1945年5月27日に第32軍が首里から南部へ撤退すると、すでに本島南端へ逃れていた住民と軍が同じ地域に混在することになった。避難壕は軍に接収され、住民は壕から追い出されたり、食糧を奪われたり、投降を…
1945年6月4 件
南部の戦闘
小禄半島の戦い
那覇市小禄・豊見城市(旧海軍司令部壕・小禄飛行場)
6月4日、米第6海兵師団が小禄半島西岸に上陸し、小禄飛行場と海軍沖縄方面根拠地隊の地下司令部を包囲した。海軍部隊は摩文仁の第32軍への合流を断念して現地で戦い、13日までに組織的抵抗が終わった。那覇の…
南部の戦闘
大田実司令官の「沖縄県民斯ク戦ヘリ」電報と自決
豊見城市(旧海軍司令部壕)
小禄で包囲された海軍沖縄方面根拠地隊司令官・大田実少将は、6月6日に海軍次官あて電報を打ち、県民が軍に協力して戦い抜いた様を報告して「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と結…
関連する戦跡 1 件
南部の戦闘
ひめゆり学徒隊への解散命令と伊原第三外科壕
糸満市伊原(第三外科壕・第一外科壕ほか)
南部の壕を転々としていたひめゆり学徒隊に、6月18日夜、突然の解散命令が下された。すでに一帯は米軍の制圧下にあり、逃げ場のない少女たちは砲撃やガス弾攻撃で次々に倒れた。翌19日、伊原第三外科壕では約1…
関連する戦跡 1 件
南部の戦闘
牛島司令官・長参謀長の自決と組織的戦闘の終結
糸満市摩文仁(第32軍司令部壕)
1945年6月23日未明、摩文仁の第32軍司令部壕で牛島満司令官と長勇参謀長が自決し、日本軍の組織的戦闘は終わった。沖縄県はこの日を「慰霊の日」と定めている。ただし戦闘そのものは終わらず、残された兵と…
関連する戦跡 1 件
1945年9月1 件
残存部隊と降伏
沖縄における降伏調印式
米第10軍司令部(旧越来村森根/現在の嘉手納基地内)
1945年9月7日、越来村森根(現在の嘉手納基地内)で琉球列島の日米両軍の降伏調印式が行われた。牛島司令官が自決していたため、宮古の納見敏郎中将、徳之島の高田利貞少将、奄美大島の加藤唯雄少将が日本側代…
1945年10月1 件
戦後初期
収容所からの帰村開始と土地の接収
沖縄本島全域(特に読谷村・北谷村・嘉手納・宜野湾)
1945年10月23日、米海軍軍政府は指令第29号「住民再定住計画及び方針」を出し、収容所の住民が旧居住地へ戻る道が開かれた。ただし周辺離島を含む16地区に30数万人が収容されており、1946年4月時…